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最小不幸

俺は最小不幸なんて言葉思いつきもしない。なぜなら、小さくても不幸は要らないからである。

基本的に自分はネガティブな方だと思っているけれど、不幸を小さく押さえる発想はない。あくまで幸を得るために起こるかもしれない不幸を想定しているだけで。

多くの不幸があらかじめ起こらないようにするのが賢者の振舞いだと思うんだけど?起こったことを上手く対処するのはただの世渡り上手としか考えれないわ。



しかも幸/不幸という、何とも定まりのない概念を持ち出して、それを大きくだの小さくだのというのは余りに抽象的過ぎだ。何が不幸かを人に決められるなんてどうかしている。

しかし、最近は結果を求めすぎるあまり不幸という感情に少しばかり敏感になっている自分がいる。実際、幸せだと頭で思ったり口にしたりなんてのは今までだって一度もなかった気がする。それは別にずっと不幸というわけではなく、こういうことが幸せだと普段から定義していないからであって、幸せかどうかと聞かれれば幸せだと答えることに疑いはない。

嫌なことや辛いことは過ぎ去ったただの記憶であり、いちいち不幸だったなんて考えるのも面倒臭い。復習や反省は俺が最も苦手とするところだから余計。真面目に分析したくらいで納得出来るようなものなら生きていく上で大した意味は持たないだろうし。

ただ、(言わ/やら)ない後悔というのは少し思うところがある。なぜかというと、自分がその行為の後で不幸になるリスクを考えてしまっているから。つまり、買ってたら当たってたかもしれない宝くじみたいなことだね。自分が最初に払う犠牲より払わなかった犠牲の方が小さいと見積もってしまった、なんというか不甲斐無さのような。まあ、なによりこういうのを引きずら無いといいわけで、引きずるくらいなら遠い未来にではなく近い未来で完結させた方がいい。

人のことはわからないけど、俺はやらないリスクよりやるリスクの方が大きかったことがトータルで多かったように思う、振り返るとね。そういった一種の猶予(行動に移さなかった期間)みたいなものを作ってきて結果的に後悔はなかったからラッキーだとも言える。でもこれからはわからないし、正直今現在はリスクを取ってでも、どれくらい損をしてもやらないと後悔しそうなことが一つ二つある。その理由としては思ってる時間の長さがある。まだ大丈夫まだ大丈夫と偶然にも来れているけど、もうそろそろそれが不安な時間の長さにきてしまった。

これまでなら、「まだ」と思っているうちに「もう」駄目になることもあって、直にそれを全て包含する事象で上書きしてきた。けれど今回だけは別ケースで、ずっとまだのままな気がして(気のせいかもしれないけど)、もうこれを逃すと無いような感じがある。

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