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シンシン進化


橿原神宮の近辺に売ってるらしいプリン

一口目に感じた風味はなんだかハーブっぽい、でもスースーするわけでもなく間違いなくプリンの味である。でもって、あのハンドメイド特有の鬱陶しい濃さもない。舌に残るプリン片は量産のものに比べるとやはり細かくてやわらかい、カラメルの甘苦いのとよくあっている。

まあ、プリンなんて滅多に食べないもんで、比べようも無いんだけど。未だに富士山のようにして食べるものだと思っているくらい。



それはさておき、進化や発展とはどういう事をそういうかとてもあやふやな気がしている。単に考え方や手続きが変わった程度の事をそう呼んでいるようにも思えてくる。

人は原人クラスのころから、体の仕組みもそこそこ変わって、道具も頻繁に使うようになってそれはそれで進化と言っている。けれど、日本においては85年を境に体力が落ち、ここ数年学力も落ちてきている。もちろんこれは人の歴史に比べてトレンドが短期的過ぎるけど、では逆に長期的にどの辺りで進化してきたか。そう考えると移動が急に長距離になったのも、情報の伝達が即時性を帯びて来たのもここ数十数百年の話である。まあ、稲作とか印刷とか生活を大きく変えるという点では何が正解と言いにくい節は否めない。
ただ、そういったアップサイジングがいつも進化であるとは言えない。例えば車なんかのスペックを見てみても、280psの制限が数年前からなくなったにも関わらずそれは一部の車に限られる。逆に、燃費を意識して馬力やなんかをダウンサイズする事も珍しくない。
パソコンだってクラウドで固めれば自分で多くを持つ必要が無くなってくる。もはやクラコンと略してしまっていい。昆布みたいだけど。

そしてなにより、人が過去の偉人を尊敬する傾向が止まないのは、その人物がやった事を知ってもなおそこから一歩も前へ進めていない証明。大河で話題の龍馬だって尊敬する人ランキングで何年見てきたか。俺からすれば尊敬してるうちはいつまでたってもその人止まりのような気がして、まともに尊敬なんて出来ないんだけどね。立派でも過去の人であり、これからの時代をどうこうする存在でもない。言わば進化してない人。そういう人を意識する人は同様に進化してないと思えてしまう。

しかし、地球規模で言えば人の出来る事の多さを進化とか文明の発展と呼んだとしても宇宙のシステムを書き換えるようなことが起きているわけではないし森羅万象の構造がわかっているわけでもない。自然の中に存在するパズルをLEGOのように組み替えて遊んでいるだけである。従って、遊びは楽しい方がいいし変化した方がいい。便利になるだけが進化と言うなら俺はそういうの要らないし、遊びでやってるなら面倒だって楽しい。

そういえば小六くらいの時「俺の脳は99%遊ぶことしか考えてない」と言ってた記憶があるけども、あと1%は何考えてたんだろう。
もしかしてそこにも遊びを持たしてたとか・・・んなわけないか、舌が適当に振る舞っただけ、きっとそう。

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