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先ずは一杯

一杯やるものと言えばなんとなく酒を思い浮かべる人も多いだろうけど、茶も一杯やる事を日本人としては思い浮かべたい。

茶の本
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岡倉 天心
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日本における茶は西洋の茶の習慣に比べてとても陰である。陰って言うとネガティブなイメージだけど、動的に対しての静的みたいなものだと俺は思っている。イメージとしての色合いや実際の空間的な事を考えても対極にある事は創造に難しくない。例えば宮廷で白いティーセットを並べるのと、一坪程度の閉空間でブラウニーな茶器を囲むというようなことである。

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また、どこかで武士道に触れてる文章があって、そこでは茶道の「生の術」に対し「死の術」と呼ばれていた。陰なイメージと言った手前生のイメージというと、まだ違和感があるかもしれない。しかし、人間は生きる上でアポトーシスやネクローシスと言った死を包含している。どっちかだけでものを語るのはあまり意味が無い。大事なのは散る桜を見て生を思い茶を啜る事である。

新渡戸稲造は武士道とキリスト教は類似していると言ったそうだが、有史上に起こった戦争のほとんどはVS一神教であったことを考えれば、戦争に巻き込まれる事も容認していたのかなあなんて思えたりもする。確かに、同じように茶を飲んでいても日本では茶を発端とした争いなどは起こらなかった(と思う)。茶代がかさんで歴史になるなんて、質素でいようとする日本の茶文化ではまあ無い発想である。

さしあたり、茶をきっかけに話が弾むっていうのがいろいろ問題あるんじゃないかと。酒もそれは変わら無いけど、飲む事をきっかけに発散するか鎮静するかはその先に十分すぎる差を与える。
心を落ち着けてれば遠くを見渡せると諸葛亮が言っているように(寧静致遠)、ただ陽気になるのも考えものである。

とはいえ、茶の巨人利休も最後は武士道のような去り方をしたと思うと、なんだかよくわからなくもなってくる。だけど、自分の一生を自分の描いた絵の通り全う出来ることはいつの時代であってもそうそうない気がする。それはその道を築いた第一人者でも例外じゃない。何せ本人の意思とは関係なく世界は動いているからね。

一杯飲む前に世界に飲まれないようにしないと。

emperor the egg

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