全体は部分の総和より大きい
全てを手に入れるには全てを捨てないといけないのか
ここで、冒頭に言った事を受け入れるなら、もう既に人は全てをもっているし、かつ何ももっていない。
しかし、その全ては全体として手に入れるのと部分を集めて手に入れるのとでは総量に差が出てしまう。つまり、全てがどれくらいかは明確でない事が多い。もう少し厳密に言うと、総量が大きすぎる状況で、である。
数学的に無限大が以下のようになる事などが、全体を把握出来ない片鱗な気がしないでもない
lim x→∞ x < lim x→∞! x
さはありながら、何もかもが欲しいと言い出すと物理的にいろいろ障害が出てきそうであると言う話もある。例えば対称性の破れとか、反物質とか、形而上学的な面とか。ただ、あまり下手なことを言うと学のある識者に文句を言われそうであるが、言われるだけの注目度をおれはまだもっていないと思ってるので、自由に述べる事にする。
そう、それで、全てと言うと反物質まで手に入れることになり、手に入れたものはどんどん消えていく事になる。まあ、これを全て手に入れて、全て捨てる、と表現してもいいかもしれない。
しかし、人間はどこからを所有とするのか、とても曖昧なところがある。この体だって借り物なのかもしれないし、その体という実体に連なるものの多くとどう或れば所有とみなせるのかわからない。
そんな事とは関係あるのかないのか、世間は所有から利用へという人々の流れがある。パソコンをはじめとしたクラウド化とでもいうべきか。持つコストなんてのも意識されたりしてね。そもそも、ここ数百年で個人の持ち物が多くなり過ぎた。技術の進歩の過程で、初めは特定の人だけに利用も所有も出来たものが、次第に誰もが利用も所有も出来るようになってきた。それ故に個人で管理しなければいけないものが細分化しその処理にコストがかかる結果となった。そして今。元々人は所有する事に向いていないそんな気もしてくる。
なまじ借り物だと自由に出来ないからこその所有なんだろうけど、本当に自由なのは何も持たない事だと考える。この辺はなんかジレンマを感じるところだけど、生と死によって永遠の所有からは開放されている。
今ディスカバリーチャンネルでも宇宙では生と死が密接に関わっていると言っていた。
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嗚呼、生死だけは全体も部分の総和も等しくなるのか、ねえ、どうなのよアリストテレス