Header Ads

相関はあっても因果は無い

桜が咲くのを見て春を感じ、また時間ともに気温が高くなるから春だと感じる


相関っていうのは、要するに気温とともに桜が咲くといったようなことだとおれは理解している。そして、かの理屈を人の心にも利用する事が少なくない。例えば心理学であったり。ただし、占いやなんかと混同しがちで、特に血液型に関しては相関というよりかは刷り込みによる部分が大きい。



さて、人の気も知らないでなんて各所でよく聞くけれど、自分が何かもわからない人間に限ってそう言うような気がする。

そもそも自分のことを自分で語る人間なんて怪しいものだ。多くは他人の目に映っている自分しか見えていない。そんな中で「あなたに私の何がわかる」なんて言われても、お前の思う自分は周囲が思うお前の一部に過ぎないし、完全に解明出来たからといって何が解決するということでもないと思ってしまう。ましてやわかったところで導かれる結論が正解かを判断するのはとても難しい。

一つだけ言えるのは、おれならわかったつもりで話なんかしないし、わかるなんて思ってない。だから聞く。わからないから聞く。相手がそれに答える答えないは別にして、以心伝心の精度を信用してない俺は聞くしかない。こういったことに関してはググってわかるものでもなければ考えても知恵の泉は湧き出ない。

何のために脳の他の器官がついているのかって、脳だけで処理出来ないからに決まってるのだ。見て聞いて嗅いで味わって触って初めて認識するし、そう進化して人といえる。

ググるという行為の欠陥は不変なもの意外の記述の多さである。それがいいところでもあるのだけど、篩うのにリテラシーが必要なのは周知である。例えばWeb検索で上位にくるのは、より精確な情報ではなく自分にとってより都合のいいことが記載された記事である可能性が高いということ。つまり、そうあって欲しいと思う記述を求めて探した結果を眺めて満足してしまうわけである。

人に好きになってもらおうとしてググり、多数の賛同を得れるであろうことをいざ実行しても意外に好きになってもらえない。多様性とはそういうものだし多数決の瑕疵が露見するいいきっかけになる。モテる人間とか男前の人間とか、理由を説明すれば聞き慣れた要素が出てくるが、要素をまとえば男前になったりモテたりするかと言えばそうでもない。因果とはこうすればモテる、こうすれば男前になるという方法が確立されていなければ言えない言葉であるはず。相関と同一視してはいけない。

なまじ株なんかやってると、しかもそこにサイエンスの解析を絡めてみたりしていると、ついつい相関や因果を見いだし錯覚してしまう。その結果、市場の間違いを見抜くどころかいいカモにされる。

心とはそれほどまでに不確実で不確定で不完全なものである。

Powered by Blogger.