Header Ads

様で呼ばれる子どもたち

少なくとも、小さい時から様付けで呼ばれて育ったらまともな感覚なんて薄れる。

世の中では学校へ行きたがらない人なんて山のようにいるのに、なんで不特定多数で報道される人と特定の個人で報道される人がいるのか。それは周りが人を区別してる以外に理由はないわけだけど、そもそもの原因で言えばそれは理由にならない。なぜなら世間にはそうじゃない人が圧倒的に多いから。



じゃあ一体何が悪いのかって、親が悪いのである。

別に子どもの教育に何が正解とかないけれど、世界の風当たりにいちいち過敏になるようではとてもじゃないけど生きていくのは難しい。なまじ金に困らなかったり日々の生活に取り巻きがいて、その風当たり自体受けてなかったりすると、そよ風ですら骨が折れる。

一生取り巻きがつくような家柄だと逆にそれで良いかもしれないけど、ちょっとでも庶民と関わって生きてくつもりならそよ風で倒れないくらい、強風でも受け流せるくらい強くならないと誰も助けてくれない。

よく王家の象徴にも使われる獅子だって、千尋の谷に我が子を突き落とすということがあるように、崇められ畏敬されるにはそれ相応の品位というものを纏っていなければならない。そして纏いもしないうちに様付けで呼ぶことなんてない。それこそ虎のいを狩るただのキツネにも及ばない。

生まれつき何も背負ってない人なんてことさら珍しいけれど、なんにもないのに様付けで呼ばれる身分に生まれなくてよかったと思う。そして、間違っても何もないただの子どもを様で呼ぶような人にならなくてよかったと。

裸の王様は自分で裸になったと同時に周りによって裸にされたのである。馬鹿と馬鹿によって馬鹿な様を晒すのである。馬鹿を見た夢は覚めると恥となり失墜する。


夢と言えば、今朝見た夢は印象的だったので覚えている。

場所はよくわからない。コンサート会場と言うか、野外フェスのようなとこで音楽を聞こうとしている。目線でいうと二階くらいの高さで見ている。コンクリートの建物の中から。登場人物で知ってる人はおれを含めて三人。そのうちの一人が演奏する側の人間と知り合いらしい。なぜか泊りで(急にシーン飛ぶ)、おれ以外の二人の知り合いが喧嘩をしている。激しい喧嘩なのに、夢の中のおれは眠りに就き、現実のおれが目を覚ました。
印象的だったというのはその”夢で寝て現実で起きた”部分。夢で寝る、つまり向こうで意識をなくすことで現実に引き戻されるという意識のドアツードアを体験した。

脳の働きが違うのかどうなのか知らないけど、勝手なおれの想像でアクセスする相が違うのかなあと。ただ、意識が何かを上手く定義出来ない以上、その辺の話を正確に説明出来る気もしない。特に意識でもって意識というものを考えるという行為に無理がある。主体と客体が同じだと出る答えに信憑性とか普遍性が無くなる。怪しい人間がおれは怪しくないというようなもんだから。

まとめると

俺は俺様とはいわないだろうと言う話。

いや違うか、それに別にいいか、まとめなくて。

Powered by Blogger.