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生態的地位

ここ数日、テレビをはじめネットの検索上位に岡本太郎の名をよく見かける。なんでも生誕百年だそうだ。

そういうのって誰かしら覚えてて、また誰かしらによって人の目に触れさせるから日の目を見るけど、一方で美術と言うのは特定の階級のものであると言う側面を持っている。

美術、市場、地域通貨をめぐって
白川 昌生
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俺が最近読んだ十年くらい前に出た本。これによると

共通理解の上に成立した世界に根拠を持っている


つまり、俺の認識で言えば庶民受けする美術とは概ね西洋におけるそれとは違うのではないかと。

実際そういった方面に教養の無い人は見たってその価値がわからないし、死ぬまで関わりを持たない可能性だって高い。例えばスーパーカーや絵画、壷やデザイナーズプロダクトはその道に精通していなければ、同じ金を持っていても全然見方が変わる。

昔から教養のない人間が挙って言うあの台詞「社会に出て学校の勉強を使ったことが無い」。正確に言い直すと使いどころを知らないだけだ。それほどまでに学が無いとしか俺には思えない。そう考えると格差と言うのは淘汰でもなんでもなくて、単なる選択の結果に過ぎないことになる。学習する事無しに処理することだけを覚え、挙句パソコンにその地位を持っていかれる。要するに、交換不可能な能力のほとんどに学は必要なのだ。

今や日本は汎用性の無いニッチさを交換不可能だと思い込んですっかりガラパゴスと呼ばれるようになった。それは政治や経済をはじめメディアや言語や文化もそうだ。赤字国債の乱発なんて以上だし、円高のおかげでGDPが世界二位だっただけ。海外のニュースは相変わらず偏見だらけの薄い情報を流し、日本人は~日本人は~とうるせえ。英語もそこらの企業が公用化したくらいでえらい大きなニュースになるし、漫画やアニメのような最近の文化を輸出し、国内のトラディショナルな相撲や歌舞伎は絶好の叩かれ役となっている。

この現状に何も感じないのは上で述べた学のない人間なのである。

住む世界が違う、これはもう本当にパラレルワールドにいるような気分になる。もちろん、どっちがいいとか人によるし変える気がない人を無理に変えるのは違う。多様性と言うのはそうして受け入れていくものだと俺は思う。
でも、平行するもう一つの世界の方では圧倒的に排除の傾向があるからね、そう上手くはいかない。

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