Header Ads

言葉があることで腑に落ちるという現象

ただ単に歳だけいくと、たとえそれが中身のないものであれ誰かしらに認めて欲しくなるという気持ちが強くなってきます。いわゆる承認欲求が出てくるというやつです。もちろん小さい頃からそれはあるにはあるんですが、その対象の向く先が子供なら親とか教師とか何とかって生きてれば関わる範囲にもうある訳です。しかし、ジジイやババア及び社会的な接点が固定化された人々となると少し事情が面倒になります。

ぼくなんかは浅学なので大学出る頃まで承認欲求なんて言葉も知りませんでしたが、いざ目の前で現象を確認した時に言葉がないとどうなってたんだろうと思うのです。

実際、承認欲求という言葉が脳内の辞書にある人は少なくともその行為において自覚があるはずです。逆に言えば無い人は誰かに認められようというのが別の何かの延長という認識しかない、もしくはそこに考えが及んでないように感じます。

例えば、仕事から離れた人が家族やらうちうちに何かしてあげたとかいうと、基本的には褒められたいとか思ってるんでしょうけど、多くのケースでしていらんということが起こり得ます。欲求の行き先が分散してればましなんでしょうが、限られた中で毎度向けられる方はたまったものではありません。

アホだから仕方ない、といった具合にアホというワードのおかげで一旦その場面を落ち着かせるという効果が言葉にはあるのです。これがボキャブラリーがない人となると言葉によって場を収めるサンプルが非常に少ないことになります。したがって感情のままに切れるという選択肢しかなくなるんですね。かわいそうです。

まあいうて承認欲求という言葉で見える景色や包含する範囲もそれぞれなんでその辺の誤差は何かしらで補完する必要はありますけど
Powered by Blogger.