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コミュニケーション能力とかいう幻想

例えば、喋る喋らないの度合いでコミュニケーションを測ろうとするのは一番下のフェーズなわけです。この辺の人たちは教養の前提が足し算引き算できたらいいというレベルにあります。最近のテクノロジーを前提とした会話が成り立つはずもなく、かといって周知レベルの技術に理解があるわけでもありません。

ものの理解を埋めるのはコミュニケーションでは不可能です。誰かが、約束とは同じ位置にある人同士で結ぶものだと言っていたように、意思疎通にもギャップがあると考えないといけません。言ってみれば、筋力に相当な差があるのに鉄球でキャッチボールするがごとくです

そこかしこでコミュ力の大事さを説いていますが、多くの人は相当コミュニケーションに難があるんでしょうね。よく言われるように、人に求めたり人の批判をする時は自らの不足をばらしてるのと同じです。

挨拶が大事とか何とかもその延長にあります。

挨拶しなさいとか子供に促す親いますけど、その相手からしてる方が様がいいです。偉い方からするからより効果があるわけで、コミュニケーションもその例外ではなく、ある方からない方に向かうのが自然じゃないでしょうか

何より厄介なのは自分がそう出来てきたというのを不用意に他人に強制するところです。やりたくなくて出来てないのはまだしも、できないことを無理強いは意味がありません。その線引きに幅がない根底は学ぶことを足し引きで止めたところにあります。自分が感覚的に理解できた範囲で脳が以降怠慢しているわけです。ペテルギウスの声が聞こえてきます

怠惰ですねー!!
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