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イメージという印象

日本企業がデザインを武器に出来ない理由

高校生の時に英語の授業で、自分の夢を発表するというのがあった。当時は建築家になりたかったので、建物の設計がしたいと英訳して言った。ただその時、一番違和感あったのが設計をデザインといったところ。自分の中でのデザインはそれこそ、物のもっと表面的な形状だと認識していた。だからそういう場だとはいえ、違う伝わり方するのもやだなあと感じてた。

今ではそういう経験もあって、広義的にデザインという発言をするようになったけど、それで上手く人に伝わってるかは相変わらずわからん。都合の悪い誤解さえ無ければ理解する方の自由でいいんだけどね、そういうのは。凝りだしたらキリが無いし、振舞いから察してもらってもいい。事実を見れば済む話。

建築をアーキテクチャって言う分、なおのこと俺の思う構造の印象とバッティングする。単語の対応だけで訳する限界は自分の日本語の語彙の少なさにある。英語力の何が足りないのかを自覚するとまず、日本語で調べることが出てくる。

デザインっていうと意匠なんだか設計なんだかは文脈に依る。それで困らないくらい日本語ネイティブではあるが、問題はそういう話じゃない。

何かプロダクトを評価する時にデザインで選びましたということの遠慮がなくはない。性能や機能で選ぶ方が見栄がいい的な文化。どアタマでリンク張った車もそうだけどね、いいデザインに触れたことないと選ぶ以前の問題になる。デザイン熱が低いからデザインが疎かになり、疎かなデザインの中から選ぶからセンスが勘違いを起こす。そのセンスがトレンドとして主流に乗る。主流はその時代の文化となる。

どれか選ぶのがマシ、それでは悪くなる輪廻は止まらない。選ばないをしないといけない。通貨はどれか選ばないといけないし、政治家も選ばざるを得ない。一番いいのは選べるだけの人になることなのだけど、それを言うとまずは選んでみることからはじめるという輪廻に入っちゃうわけで。そこから抜けるためには生まれつきの頭のデザインより勉強が必要なのである。
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