乗り物の中のクルマ
ウィリアム・J. ミッチェル ローレンス・D. バーンズ クリストファー・E. ボローニ=バード
東洋経済新報社
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人間の忘れっぽいという瑕疵を埋めるように機能するとは、つまり人間が「考える」という仕事を機械に外部委託するのに等しい。こういうのってどうなのかなあと。近代は新エネルギーの台頭により、ある意味で環境の破壊を抑制した面がある。ただ、それは一方で人の価値を下げた結果でもある。もちろん下げ幅は化石燃料で代替できる程度といえば、どれほどのものかという感じではありますが。
しかし、そう思えば大概のことは代えが利くということです。上っ面でいくら「これじゃなきゃ」と思っていても、無ければ無いでなんとかなる。まるでそういうオフセットが生物的にメリットがあるかのように。
でもねぇ、おれは代替出来る出来ないといったことより、したいかしたくないかの方が重要だと思う。例えば、移動一つとってもただ場所を変えるだけなら電車とかバスでいい。クルマはその二つでは完全に置き換えられない部分があるからクルマに乗る。そうあるべきだ。住む場所もインフラの程度も人が任意に選んでいる。仕方が無くとか選択肢が無いってのは理由にならない。
価値観とはこの場合におけるクルマの見方で、乗り物か乗りたい物かの違い。俺にとってバスも電車も乗り物、クルマは乗りたい物。ここの出発地点が違うと、仮にクルマのことで議論になってもずっと平行線になる。当然クルマ以外のことでも同じ。そういう面に理解が無ければ話にならない。
考えるなって言葉を鵜呑みにせず、必要なとき必要なことはやはり考えないと。バカみたいに口が先に動くとろくな言葉が出ないものです。