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レンズ

去年は戦場カメラマンが流行っていた

極端にいえば、写真というのはなんでも無いものを異常に写すから意味がある。かつてカメラが絵画に台頭してきた時期、多くの画家は職を失ったそうで。しかし印象派のように精確な景色ではなく時を描くことに舞台を変えればカメラの範疇の外の事。

その時々で造物にはその表現の価値を付加していかなければいけない。



それに


こんなものはどうやったって人の手が描く事は無理。そもそも不可視の領域である。どんな世界にだって棲み分けが存在していて、そこにあって絶対的なんてのは幻想でしかない。
時≒光とはいえ概念としては分離しているし、可視化の様が違いすぎる。

棲み分けと言えば

田舎暮らしというのは自然に優しくないらしい。都市のように集中していた方がエネルギー的に高効率だそう。高層ビルが環境を壊しているというのは過去の話で、今は都市計画という思想により、街も高度に進化している。例えば風の通り道を作るためにツインタワーを建て某所の百貨店を壊したのもそれが理由。風の通り道は街の気温を下げ、生物多様性も確保出来るとの事だそうだ。

こういうことを聞くと、里山という概念も破綻しつつあるのかと思えたりもする。しかし、こういう事で逆にエネルギーの総消費自体が加速的になるような事もあるのかと思ってしまわなくもない。
そしてまた、無い頃のそれとある今のそれでは全然意味合いが変わってくるのだろう。

馴染んでしまうとすっかりそれが最善だという気がしてついつい慢心してしまう。慣れる生き物であるだけに習慣が身を滅ぼすのである。間違っていないということ自体間違っている可能性が高い。


今ちょっとだけ空が明るくなってきた
土曜夕方の晴れ間

ああこれは間違いない。

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